書評/映画評

ブレードランナー 〜 人間とアンドロイドの違いは何か?

昨日、時間があったので、
『ブレードランナー』のDVDを見直しました。

本日10月27日公開の『ブレードランナー2049』に備えて、
前作を復習しておこう、という趣向です

『ブレードランナー』は、1982年の公開。

初めてこの作品を見たのは、計算すると、17歳になるので、
高校2年ということになります。

それ以来、一度も見ていないので、
35年ぶりに見た
ということになります。

当時は、私の大好きな映画『スター・ウォーズ』の
ハン・ソロ船長を演じたハリソン・フォードが主演している、
ということで、
『スター・ウォーズ』ファンの間では、
非常に話題になった作品なのです。

実際、『ブレードランナー』は、
ハリソン・フォードの大出世作となり、
その後、人気俳優の地位を確固たるものにしていく。
そんなハリソン・フォードの転機となった作品でもあります。

さすがに、今、この作品を見直すと、高校生で見たのとは、
全く違った作品に見えました。

当時は、SF映画のビジュアル面。
近未来の世界観に心酔したものですが、
今は完全に「人間とは何ぞや?」
「レプリカント(ロボット)とは何ぞや?」という
テーマ部分に注目がいきます。

(薄汚れた、東洋的な雰囲気の未来感を初めて視覚化したのが
『ブレードランナー』です)

ルトガー・ハウアー演じるレプリカントのリーダー、バッティ。

昔は、ルトガー・ハウアーの容姿もあって、
何と恐ろしい、憎たらしい存在と思ったものですが、
今、見ると、「悲哀感」しかありません。

レプリカントに与えられた4年の寿命が尽きようとするバッティ。
何とか「延命」したいとガムシャラになります。

最後のデッカードとバッティとの対決。
殺人ロボットであるバッティは、何度もデッカードを殺すチャンスがあったのに、
デッカードを殺さない。

それどころか、
ビルの上から転落しようとするデッカードを助けます。

そして、バッティは4年の寿命が尽きて、機能停止します。

これは何かというか、
ある意味、「死の看取り」でしょう。

デッカードに自分の死を看取って欲しいがために、
デッカードを生かした、ということ。

自分の「生き様」と「死に様」を、
デッカードに知ってほしかった、ということ。

それが、どんな意味があったのか?

非常に大きな意味がありました。
デッカードは、レプリカントに共感した。

それが、
ラストのレイチェルとの逃避行につながるわけです。

死を怖れるレプリカント。
人間のレプリカントへの共感。
人間のレプリカントへの愛情の芽生え。

人間とロボットの間の、新しい関係性が生まれ瞬間。

それは、人類とロボットの歴史上、
「歴史的瞬間」といってもいかもしれません。

映画『ブレードランナー』では、
人間とロボットとの関係性が描かれます。

これは、フィリップ・K・ディックの原作
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」とは、少し異なるテーマといえます。

(ちなみに、フィリップ・K・ディックは、
樺沢の最も好きな作家の一人でありますが
それついてはまた後日、語ります)

原作の方は、「人間とロボット(アンドロイド)の違いは何か?」

ロボット技術が究極まで進化して、
人間と全く同じ機能のロボットが作られたとしたら、
人間とロボットは何が違うのか?

映画も原作も「共感」のあるなしで、
人間とアンドロイドの鑑別を試みますが、
感情も共感もアンドロイドが備えたしたら、
人間とアンドロイドは、一体、なにが違うのか?

人間とアンドロイドの違いなどないのではないのか・・・。

そして、そもそも人間だと思っていた自分は、
ひょっとするとアンドロイドかもしれない、という疑念・・・。

みたいな、そんなテーマが描かれるのが原作ですが、

映画では、人間とアンドロイドの違いというよりも、
人間とアンドロイドの「交流」に、
力点が置かれているように思いました。

リドリー・スコットが監督した『ブレードランナー』。

リドリー・スコットと言えば、『エイリアン』の監督であり、
先日公開された『エイリアン: コヴェナント』の監督でもあります。

実は、『エイリアン』シリーズというのは、
「エイリアン」を描いたシリーズに見えますが、
「エイリアン」以上に「アンドロイド」が重要な役割を担っています。

それが、『エイリアン: コヴェナント』では、
実に顕著に現れていました。

アンドロイドは、どこまで進化することが許されるのか?

人間以上の知性を有したアンドロイドは、
エイリアン以上に恐ろしい存在である、
ということが『エイリアン: コヴェナント』では描かれていました。

リドリー・スコットにとって、
「アンドロイドとは何ぞや?」
「アンドロドは、どのように存在すべきか?」
数十年かけて描き続けている壮大なテーマの中で、
『ブレードランナー』をとらえると、さらに深く理解できると思います。

映画は1982年ですが、原作は1968年に書かれています。

1968年には、AIが存在しないのは当然として、
パソコンもインターネットすら存在しなかった。

そんな時代に、ロボットとAIが極度に進化し、
人間存在を脅かすことを予見していた。

そんな、卓越した予見力をもって描かれた、原作。

そして、それをものすごいビジュアルで視覚化した映画。

今さらながら、「凄い」としか言いようがありませんし、
ロボット、AI技術が日常化した現在、
この作品を見直すことによって、また違った見方ができるのです。

原作が書かれた当時、そして映画が公開された当時よりも、
作品の「凄さ」がパワーアップしている。

そんな時代ともに進化する不思議な作品が、
映画『ブレードランナー』であり、
原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」であるわけです。

新作の映画公開を前にして、
映画を見直す、
原作を読み直すのは、
実に知的好奇心を刺激する冒険と言えます。

特に「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は、
読むべき1冊。

なぜならば、私の「最も好きな小説」の一つだからです。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
(フィリップ・K・ディック著、ハヤカワ文庫)
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