【ネタバレなしの映画批評】
レオナルド・ディカプリオが、
ついに悲願のアカデミー主演男優賞を受賞!!
ということで、『レヴェナント:蘇えりし者』を見てきました。
苦節◯年。何年なのかわからないほど、
「今年こそは」「今年こそは、アガテミー賞を」
という状態が続いておりましたが、
ディカプリオ・ファンの私としては、
ついにオスカーを手にしてくれて、本当にうれしいです。
個人的には、『アビエイター』あたりで受賞して
欲しかったんたですけどね。
さて、この『レヴェナント:蘇えりし者』。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、
異例の2年連続のアカデミー監督賞受賞ということで、
期待感がものすごく高まります。
『レヴェナント』を一言でいうと、
限界状況での人間の生死を描いたチョー骨太映画
ということになるでしょう。
血や肉が飛び散る描写は、見ていてキツイものがあります。
特に女性の方は、キツイかも。
しかし、見終わったあとに、
感動やテーマがジワーッと押し寄せてくるのです。
ディカプリオ演じる、主人公のヒュー・グラスは、
物凄い「辛抱」と「苦しみ」を体験するわけですが、
観客は、その「辛抱」と「苦しみ」を追体験させられます。
映画に入り込み、主人公に共感するほど、苦しくなってくる。
全く日本人好みの映画ではないと思いますが、
私はテーマが深い、この手の骨太映画は、
見ごたえがあって引き込まれます。
ストーリーを一言でいえば、
「子供を殺された復讐をする話」ということになりますが、
それではこの映画の魅力や、本質を全く説明していません。
その単純なストーリーラインに、神や父性の問題。
殺し合いと侵略を続ける人間の野蛮さなど、
深いテーマが山程盛り込まれています。
セリフが少なく、ほとんどを映像で説明している。
だから映像からテーマを読み取らないと、
とてもつまらない映画になってしまいます。
詳しい内容とその解釈については「ネタバレ」になって
しまいますので、次の「ネタバレ解説」のコーナーで
詳しく書くことにします。
この映画を見る前に、いくつか知っておいた方がいい
歴史的事実があります。
まず、バッファローについての知識です。
映画の冒頭にバッファロー狩りの話が出てきます。
バッファロー狩りの一団のガイドとして雇われていたのが、
ディカプリオ演じる、主人公のヒュー・グラスです。
1800年代初頭。
新大陸への入植がはじまり、
白人が新大陸に押し寄せるわけですが、
当時、バッファローの毛皮が高値で取引されていたため、
バッファローを乱獲したのです。
北米大陸には、もともと数千万頭のバッファロー(アメリカバイソン)が
生息していたと言いますが、1800年代後半には、
なんと約500頭までに激減し、絶滅危惧種となったのです。
現在は国立公園などの保護区でその数を増やしていますが、
野生のバッファローは絶滅したといいます。
そのくらい猛烈な「乱獲」を行っていたわけですが、
それがこの物語の端緒となります。
ご存知のように
新大陸には先住民のインディアンがいたわけですが、
白人はバッフォローだけではなく、
インディアンも殺してその土地を奪っていった。
アメリカの建国の歴史は、
こうした血塗られた歴史であるわけですが、
そうした「血なまぐさい歴史」が、この映画では描かれます。
(ちなみに、「インディアン」という言葉を差別用語だと
言う人がいますが、
少なくともアメリカでは普通に使われている言葉です。
テレビや舞台などでも「インディアン」という言葉が
普通に出てきますし、
西部のおみやげ屋さんに行くと
「インディアン・クラフト」とか「インディアン・アート」と
いったお土産が普通に売られていますから)
もう一つ、映画のクレジットの一番最後に英語で
「歴史的事実をもとにした実話」と出ます。
しかし、これが日本語字幕になっていないのです。
ほとんどの日本人は、「実話を元にした話」だと
最後まで知らないで見てしまうという。
おそらく、「実話を元にした話」だと知らないと、
「こんな瀕死の状態から生き返るなんリアリティがない」
とか、つまらない批判を言う人が出るでしょう。
逆にこれが実話だとわかると、
「こんな奇跡ともいうべき話が本当にあったんだ」
と大きな驚きに変わるはずです。
さて、話は脱線しましたが、
ディカプリオの演技はどうだったのでしょう?
アカデミー賞にふさわしい演技だったのか?
実は、ディカプリオは、最初から最後まで
出ずっぱりでありながら、ほとんどセリフがありません。
瀕死の重症を負って、喉にも怪我をするので、
うまく言葉がしゃべれない、という設定だからです。
つまり、「うー」とか「あー」とか、
うめき声が多いのです。
そうした、言葉にならない分、表情や視線、
目力などに演技力が要求れさるわけですが、
これがアカデミー賞に匹敵する演技なのかというと、
私には微妙に感じました。
「生と死をさまよう男」を迫真の演技をしてはいますが、
ディカプリオの俳優歴から言うと、
『アビエイター』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』とか
もっといい映画がたくさんあったのではないかという・・・。
『レヴェナント:蘇えりし者』は、
一言でいうと、重厚で骨太な映画。
エンタメを期待して見るとひどい目にあいます。
しかし、
主人公の「苦しみ」の先に見えてくるものがあります。
「生の喜び」、「愛」、「ゆるし」。
過去のイニャリトゥ監督作品同様、
魂を揺さぶるような深いテーマと感動を味わうことでしょう。
【『レヴェナント』ネタバレ解説】
『レヴェナント:蘇えりし者』。
非常に重厚な作品でありますが、
見終わった後に頭の中が「?」だらけになった人も多いでしょう。
ということで、
久しぶりにディープな「ネタバレ解説」を書いてみました。
映画のラストシーンについても書かれていますので、
映画をご覧になってからお読みください。
『レヴェナント』を一言でいうと、
殺された息子の復讐をする映画です。
つまり、父親の愛、父性愛が描かれます。
フィッツジェラルドとの決戦シーンで、
フィッツジェラルドはグラスに
「(息子)をもっと強く育てておくべきだった」と
言います。
グラスの息子は、かなり軟弱に描かれていますが、
それは父親であるグラスの責任であり、
つまり父親として十分な責任を果たせなかった
という後悔を抱いていたからこそ、
フィッツジェラルドは、グラスの心理的弱点を突いたのでしょう。
グラスは「息子の復讐」を誓いますが、
それは「強い息子」に育てられなかった
父親として「父性的役割」を果たせなかった
自分の責任、自責の念の払拭でもあったはずです。
「父性」というものが本作の中心テーマであるとわかると、
あとはわかりやすいでしょう。
映画を見ればわかるように、
「神」についての描写が繰り返し出てきます。
古びた教会での幻想的なシーンもそうですし、
ラストシーンもそうです。
主人公のグラスは、息子を殺した復讐相手の
フィッツジェラルドのとどめをさすかと思いきや
「神にゆだねる」ことにして、
フィッツジェラルドを川に流します。
「父と子と精霊の神名においてアーメン」の、
「父」は言うまでもなく「神」のことです。
キリスト教的には「父=神」なのです。
「神」が「父」であることを知っていれば、
『レヴェナント』における「神」のテーマは、
「父性」のテーマの範疇にあることに気付きます。
『レヴェナント』の主人公は、
ディカプリオ演じるヒュー・グラス。
と思うでしょうが、もう一つ、主人公と言っていいほど
繰り返し登場する「存在」があります。
それは、「自然」の描写です。
『レヴェナント』には、自然の描写がたくさん出てきました。
それは、霧がかかった森。美しい清流の流れ。
目に映える森林の緑。
自然は、時にものすごく美しく、
時に「雪」や「寒さ」など「厳しい存在」として、
グラスの行く手を阻みます。
この「自然」こそが、
『レヴェナント』のもう一つの主人公といっていいでしょう。
この「自然」は、何を象徴しているのでしょう?
人間と比べて圧倒的に巨大で、壮大で、
荘厳で厳粛で、人間などがたちうできない存在。
それは、「神」のイメージと重なるのではないでしょうか?
グリズリーに襲われ瀕死の重症を負うグラス。
野生動物もまた「自然」の一員と考えると、
グラスに瀕死の重傷を追わせたのは、
「自然」であり「神」であったはずです。
つまり、グラスの危機的状況は、
神がグラスに与えた「試練」と考えられます。
「子供の死」という試練は、
聖書にも何度か登場するパターンです。
ちなみに、ほとんど死んだような瀕死の重症から
立ち直る描写は、聖書的には「救世主」を意味します。
例えば『マトリックス』のネオは
一度心臓がとまり、死んだ状態から蘇り、
スーパーマン的な強さを獲得します。
ちなみに、「ネオ(NEO)」は、「ONE」のアナグラム(文字の並べ替え)。
「The One」は、「選ばれし者、救世主」という意味です。
瀕死の重症から蘇ったグラスもまた
「救世主」のイメージを背負い、
「命の危険」「子供の死」「怪我の痛み・苦しみ」
「空腹」「寒さ」「敵の攻撃」など、
さまざまな試練を受けることになります。
グラスの前に立ちはだかる雄大な自然。
雪や厳しい寒さは、グラスを命の危険にさらします。
では、「自然」は「敵」なのかという、そうでもありません。
グラスのゲガの炎症を沈めたのは、自然の薬草の効果でした。
空腹をしのぐことができたのも自然の恵みです。
霧に包まれた森。清流の流れ。
空から降り注ぐ隕石。雪煙をあげる雪崩。
この映画の中で、自然は圧倒的な「美しさ」
をもって描かれます。
自然は、「敵」でもあり、「味方」でもある。
圧倒的な雄大さと、美しさを備えた存在。
つまり、「ニュートラル(中立)」な存在なのです。
自然は、行く手を阻むつもりもないし、
グラスを助けるつもりもない。
ただ、そこに存在するだけ。
そこに「意志」など存在しないのですが、
「意志」が存在するようにも見えます。
「自然」に「神」を見出すのなら、
また同じ図式が成り立つでしょう。
神はグラスに試練を与えて、
時に行く手を阻み、時に彼を助けているようにもみえますが、
それは神の意志とは全く関係のない「偶然」という
見方もできるでしょう。
ただ、この映画の中で歴然として描かれるのは、
「圧倒的な自然」の中で翻弄されるグラスの姿です。
私が『レヴェナント』を見て思い出したのが、
西遊記での「お釈迦様の手の上の悟空」のエピソードです。
悟空が自分の力を見せつけようと、
筋斗雲(きんとうん)で遠くまで飛んでいき、
そこで見つけた柱に自分の名前を書いて
得意になって帰ってきます。
実はその柱は、お釈迦さまの指だったという。
お釈迦様の圧倒的な存在と比べると、悟空の力というのは、
本当に微々たるものにすぎない、という。
「自然」(あるいは「神」)に翻弄されるグラスは、
まさに「お釈迦様の手の上の悟空」状態なわけです。
最初は、「息子の復讐」というネガティブエネルギーに
支配されていたグラスですが、
一匹狼のインディアンに救われたり、
誘拐されたインディアンの娘を助けたりといった、
人間的な交流によって、
そうした負のエネルギーに変化が見られます。
身体が癒やされていくだけではなく、
心も癒やされていくのです。
そして、最後には、
復讐相手のフィッツジェラルドのとどめをささずに、
神にゆだね、川に流すのです。
この最後のシーンでは、
「赦す」までは行っていないとしても、
「怒り」による支配からは逃れていたはずです。
これは、「自然」による癒やしなのか。
「神」による癒やしなのか。
見る人、次第でしょう。
殺し合いのシーンの連続。
さらに、動物の内蔵や真っ赤な血がしたたるシーンも何度もあります。
血と肉が生々しい映像で描かれますが、
それは、「生」と「死」をリアルに描くということです。
「生きる」。
そして、いかに「生きる」か?
ということが、この映画の重要なテーマとなります。
「復讐」や「怒り」などの負のエネルギーに
突き動かされて「生きる」ことは、
真の意味で「生きる」ということではない。
アメリカ人。フランス人。
そして、インディアンの三つ巴の戦い。
「戦い」というよりは、「殺し合い」。
憎しみと復讐の連鎖。
これは、昔の話ではなく、今も続いている話です。
イスラム対キリストの争い、殺し合い。
こうした、「憎しみの連鎖」は、
世界中のいたるところで見られます。
アメリカ入植から200年たった今も、
何も変わっていない。
『レヴェナント』のラストで、
グラスは「憎しみの連鎖」を断ち切ったはずです。
おそらく。
もっと視野を大きく見よう。
人間の諍い、殺し合いなんて、何の意味もない。
大自然、そして地球という広い世界の中で、
ちっぽけな争いごとをいつまで続けるんだ・・・。
そろそろ「憎しみの連鎖」を断ち切る時期ではないのか・・・。
そんな骨太なテーマが、
セリフや言葉に頼らず、圧倒的な映像によって、
語られているように思えました。
(終)
この映画批評が参考になったという方は、シェアをお願いします!!