映画『君の膵臓をたべたい』が、
非常によかったので紹介します。
予告編を見るぶんには、
「高校生の恋愛話」と思いますが、
全くそうではないところがよかった。
読書好きだが友達が一人もいない図書委員の「僕」。
「桜良」が、「膵臓の病気を患っている」という、
彼女の秘密を偶然知ってしまう。
「僕」が病気の「桜良」を支える話かと思いきや、
かならずしもそうではない。
コミュ障ぎみの「僕」は、
「桜良」との交流を通して徐々に心を開いていく。
「桜良」に対しても、他のクラスメイトたちに対しても。
「僕」が「桜良」を支えている、癒やしいてる、
というよりも、
「桜良」が「僕」を癒やしているのだ!!
この手の難病ものといえば、
「病気の彼女を支える献身的な男性」といった構図が定番だが、
この映画では、2人の関係性が、非常にフラットで、
相補的(お互いに補い合っている)ところがとてもいい。
それは、「好き」「嫌い」といった恋愛感情ではなく、
お互いをリスペクトし、一人の人間として敬意を払い合う。
支え、支えられる。
感謝し感謝される。
承認し、承認される。
それは、
「恋愛」を超えた、もっと深い「人間愛」ともいうべき、
非常にかけがえのない、関係性に見えた。
自分は、ここにいてもいいんだ。
という「承認欲求」の世界。
そこには、真の安心感があり、真の「癒やし」があるのだ。
多感な高校生としては、
「恋人が欲しい」という気持ちもありますが、
それ以上に、
「自分を承認してくれる存在」
「自分を必要としてくれている存在」
を求めるものです。
多くの場合、それは同性の友人ということが多いのですが、
この映画が、異性の間で、
互いに承認しあえる関係性が描かれているのが興味深いのです。
主人公の「僕」。
友達もいなく、いつも一人で読書しています。
「ああ、これって高校時代の自分じゃないか」と、
自分の高校時代を思い出して、激しく共感してしまいました。
ああ、自分も、
こんなにコミュニケーション下手な時代があったんだ、
と。
多感な高校生の時期は、
ほとんどがコミュニケーションが下手。あるいは苦手。
そんな、「コミュニケーション下手」を
どのように乗り越えていけるのか・・・
というのも、この映画の重要なテーマの一つになっていると思います。
そして、「今」という時間の重要性。
『神・時間術』の中で、私は、
「今にコミットして生きよう!」
ということを強調しましたが、
『君の膵臓をたべたい』も、
「今」、そして「今日」を悔いなく、全力で生きよう!
というテーマを、ストレートに伝えてくれます。
「今」、そして「今日」を無駄に過ごしてはいけない!
と、強く、強く意識するはずです。
映画のラスト。
場内は鼻をすする音が響き、号泣の嵐が吹き荒れていました。
私の場合は、「号泣」というよりは、「爽やかな感動」。
「悲しい」というよりも、
「前向き」で「ポジティブ」なエネルギーを充電したような感覚になりました。
ということで、『君の膵臓をたべたい』。
いろいろなことを考えさせられる、心に染みるいい映画です。
映画『君の膵臓をたべたい』予告ムービー
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