昨日、「その1」を掲載しましたが、不十分な部分もありましたので、
リライトして再掲しました。
昨日、読まれた方も、改めて続けてお読みください。
以下の記事は、『竜とそばかすの姫』の【ネタバレ】を含んでいます。
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●『竜とそばかすの姫』に酷評の嵐
『サマー・ウォーズ』の細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』。
公開直後に見たのですが、物語が壮大すぎて、
なかなかアウトプットをまとめられないでいました。
しかしながら、ネットを見ると、
酷評や批判が多くたいへん残念に思います。
「物語が壮大」と書きましたが、
様々なテーマが盛り込まれており、情報量が膨大。
それを整理し、理解するのは、映画を見慣れていない人には
難しかったかもしれません。
どんなに「おいしい料理」も、一度に食べ過ぎると、
消化不良に陥ります。
樺沢の武器は、「心理学」ということになりますので、
『竜とそばかすの姫』を心理学的に分析してみましょう。
そうすると、意味不明な描写に、
深い意味が隠されていたことに気付きます。
本稿を読んで、
『竜とそばかすの姫』の凄さに気付く人が、
1人でも増えてくれるとうれしいです。
1●「クジラ」は何を象徴するのか?
さて、壮大なストーリーである『竜とそばかすの姫』。
どこから、読み解いていけばいいのでしょう?
まずは、シンプルに行きましょう。
細田守作品には、クジラがよく登場します。
『時をかける少女』(2006)では、
最初のタイムリープのシーンにクジラらしきものが登場します。
『サマーウォーズ』(2009)では仮想世界OZの守り主がクジラでした。
『おおかみこどもの雨と雪』(2012)では、絵本の中にクジラが出ていました。
『バケモノの子』(2015)では、渋谷の街に巨大なクジラが現れます。
『未来のミライ』(2018)では、クジラ型のお菓子が登場します。
細田監督が「クジラが好き」ということは間違いないでしょうが、
クジラの心理学的な意味、象徴を知っていると、
『竜とそばかすの姫』は、
ものすごくわかりやすい作品に変わります。
『竜とそばかすの姫』では、過去の細田作品と比べても、
クジラの存在意義が大きい。
最も重要な意味を持って登場している、
といっても過言ではありません。
『竜とそばかすの姫』その冒頭で、
巨大なクジラの上にのった歌姫のベルが、
膨大な観衆の前で歌唱するシーンがあります。
映画後半にもまた、同様のシーンが出てきます。
結論から言います。
クジラの心理学的な意味は、「母性」です。
母性の象徴がクジラです。
母性とは、「全てを包み込む」愛情です。
「無条件に」全てを包み込む愛情、それが「母性」です。
母親が子供に抱く慈しみの感情。
それは、非常に狭義の「母性」です。
母性の究極系は、「太母」(たいぼ)とも呼ばれます。
「母なる大地」「海から生命が生まれる」のように、
生命を生み、育てる存在が「太母」です。
『崖の上のポニョ』に登場した、ポニョの母親、
「グランマンマーレ」とは、「太母」のフランス語読みです。
「生命の源」=「母なる海」=擬人化された「グランマンマーレ(太母)」
が描かれていました。
そして、母なる海を悠然と漂うクジラもまた、
圧倒的な母性のイメージです。
2●神話とクジラ
聖書、神話、昔話などにも、クジラはしばしば登場します。
「クジラに呑み込まれる」という話の元祖ともいえる話が、
旧約聖書の「ヨナ書」に書かれています。
さらに、「ピノキオ」の「クジラに呑み込まれる」話も有名です。
クジラ=母性
クジラに飲み込まれて、そこから脱出するというのは、
「生まれ変わり」「再生」「新たな出発」を示します。
クジラは、言い換えると「子宮」です。
「子宮」から出る。
それが、「生まれる」ということを意味します。
クジラの神話的意味、心理学的意味について知りたい人は、
神話学者ジョセフ・キャンベル著『千の顔をもつ英雄』
をお読みください。
ジョージ・ルーカスが、
『スター・ウォーズ』の物語を考えるときに参考にした本として
知られています。
難しいことはおいといて、
>クジラ=母性
>クジラからの脱出=再生、生まれ変わり
の2つだけ知っておけばいいでしょう。
これを予備知識として知っていると、
クジラに乗って登場するベルは、
非常に「母性」的な存在。
あるいは、「母性」的な何かを象徴するだろう・・・
ということが容易に予想できます。
映画を読み解くヒントが、
映画の一番の冒頭に示されるわけです。
キーワードは「母性」です。
3●すずが別人のように成長した理由
『竜とそばかすの姫』の主人公「すず」は、
自然豊かな高知の田舎に住む17歳の女子高校生。
父と二人暮らし。
幼い頃に母親の死をきっかけに、
大好きな「歌」を歌うことができなくなりました・・・。
その「すず」が、親友に誘われ、
全世界で50億人以上が集うインターネット上の仮想世界「U(ユー)」
に参加することに。
「U」では、「As(アズ)」と呼ばれる自分の分身を作り、
まったく別の人生を生きることができるのです。
すずのAsは、
「ベル」という絶世の美女が生成されました。
私は、映画の冒頭を見て、
すず、またはベルが、クジラに呑み込まれるシーンが
絶対に登場するはずだ!と確信しました。
クジラに呑み込まれてからの、再生、生まれ変わり。
これが、心理学的なテンプレートだから。
しかし、すずやベルが、
あからさまにクジラに飲み込まれるシーンはありません。
おかしいな。
いやまてよ・・・。
インターネットの仮想空間「U」。
そこでは、「As」という分身を通して、
もう一人の自分を生きることができるのです!
つまり、「U」自体が、全てを呑み込む、包み込む存在。
「新しい世界」。太母の象徴であり、
巨大な「クジラ」なのです。
クジラは、「母性」であり「子宮」。
ちなみに、「子宮」は、英語でUterus。
「U」=子宮、です。
母親の死のトラウマを持つ主人公「すず」は、
「U」というクジラに飲み込まれます。
そして、ベルとしての冒険を通して、
アンベイル(自分の正体をさらす)という自己犠牲の末、
「U」の世界を出て、現実世界にもどる。
そして、「人を救いたい」という愛情とともに、
自分への自信。自己肯定感が高く、行動力のある少女へと
変わっていました。
彼女自身が、人々を包み込み、癒やす。
母性的な存在へと、生まれ変わっていたのです。
4●”「竜を救う理由」が描かれていない”理由
さて、ここまで「前振り」というか、「前座」
というか「予備知識」です。
ネットを見ると
「すずが竜を救いたい」と思う理由が描かれていない
という批判、指摘がたくさん見られます。
結論から言うと、「すずが竜を救いたい」という理由は
必要ないのです。そして、それを描いてはいけないのです。
「すず」は、全く自分に自信がない
自己肯定感の低い少女として登場します。
「U」の世界の中で、ベルとしては、
堂々と歌うことが出来るし、
自分の自信を少しずつ取り戻していきます。
「U」に突然、現れた、謎の存在「竜」。
「U」の破壊者、邪悪な存在なのか?
それとも・・・。
「竜」の心が傷ついていると感じたベル。
それは、ベル(すず)自身が、心に傷を持っていたから、
「共感」のアンテナが反応したのでしょう。
何度か竜と接触するうちに、
ベル(すず)は、
「竜を救いたい」という想いにとらわれます。
そして、最後は「アンベイル」。
現実の存在をネット上に明らかにする(さらす)
という、自己犠牲をもって、竜を救おうとします。
現実世界に戻ったすずは、
現実世界で、父から虐待されている竜を救うために、
高知から東京へと向かいます。
ネットを見ると、
ほとんど「赤の他人」である竜を、
アンベイルという最大のリスクを背負ってまでして、
救おうとした理由が描かれていない!!
あるいは、その動機の描写が不十分だ!!
結果として、
すずと竜の関係に共感できない。
つまらない。
映画として出来が悪い。
といった批判、指摘がたくさん見られます。
映画というのは、何年もかけて作られるものです。
つまり、私たちが映画を1度見て気付くようなことは、
製作者たちは、当然気付いていて、
何十時間も、そして何日もかけて
徹底的に議論されているのが普通です。
「すずが竜を救おうとした理由」は、
描かれていないのではなく、描いていないのです。
正確に言うと、「描いてはいけない」のです。
「すずが竜を救おうとした理由」が明確に描かれてしまうと、
この映画は全く意味も不明な、おかしな映画になってします。
ディズニー映画なみの駄作に陥落してしまいます。
5●すずがトラウマを超えられた理由
主人公のすずはトラウマを背負っていました。
それは、幼少期に母親が亡くなったから。
その母親は、すずの目の前で、
見ず知らずの子供を助けるために川に飛び込み、
子供の命と引き換えに、水死してしまいます。
すすば、母の死を、目の当たりに目撃し、
大きなショックを受けました。
「見ず知らずの子供」と「自分」。
どちらが大切だったのか?
自分は、母親に大切にされていなかった。
自分は母親に愛されていなかったのではないか?
母親を責め、自分を責める幼少期のすず。
大好きだった「歌」を歌うこともできなくなりました。
しかし、本作のクライマックスで、
なぜ母親が、「見ず知らずの子供」を命をかけて助けたのか。
その理由を知ります。
それは、自分が「傷ついた竜」を心から救いたいと思ったから。
アンベイルという、究極の自己犠牲と引き換えにしてまで、
竜を救いたいと思った。
その「人を救いたい」という想いは、
込み上がってくるものです。
すずは、何か理由があって竜を救ったわけではなく、
竜を救いたいという「衝動」にとらわれ、
アンベイルまでして、
そして高知から東京まで助けに行ったのです。
そして、その「人を救いたい」という想いは、
母親が川が増水する中、中州に取り残された少女を
「助けたい」と思った母親の感情と全く同じじゃないか!
それに、すずが気付きます。
人を救うのに、理由なんか必要ないのです。
母親は、「人を救いたい」という想いを、
ストレートに行動にうつせる
愛にあふれた素晴らしい存在だった。
自分も、母親に愛されていた。
そして、その「弱いものを愛する」。
弱いものを救いたい。かばいたい。守りたい。
すずの母親が持っていた深き「母性愛」が
自分にも受け継がれていた!!
このすずの「気付き」こそが、
映画のクライマックスです。
これを、仮に「母性愛」と表現しましたが、
「見返りを求めない愛」。
西洋では、「アガペー(神の愛)」と呼ばれるかもしれません。
例えば、母親が赤ん坊を「守りたい」と思うのに、理由がありますか?
理由が必要ですか?
必要ないですね。
あるいは、何か「見返り」を求めますか?
求めませんね。
「母性愛」の対象は、
自分の子供に限定されるものではありません。
さらに大きな「母性愛」として、
全ての存在を覆い、包むような大きな愛情。慈しみの心。
そんな「究極の母性愛」が、
本作では描かれています。
重要なのは、竜がすずにとっては、「赤の他人」である。
ということなのです。
例えば、竜がすずにとって異性の愛情の対象であり、
それが理由で「救いたい!」と思ったのなら、
「母性愛」「見返りを求めない愛」という
本作のテーマが台無しになるではありませんか。
6●細田監督がディズニー映画を揶揄した理由
愛する人のために、自己を犠牲にして相手を救う!
というディズニー映画にありがちな、
陳腐な作品をあなたは期待するのですか?
本作では、
ディズニーの『美女と野獣』を揶揄しています。
『美女と野獣』の主人公の名前は、本作と同じ「ベル」。
『美女と野獣』とそっくりなダンスシーンもあります。
最初、このダンスシーンを見たとき、
『美女と野獣』へのオマージュかと思いましたが、
オマージュというのは、敬意の念に基づく好意的な引用のこと。
しかし、細田監督の真意は、その逆であったでしよう。
批判、否定とまでは言わないまでも、
浅薄な映画を作り続ける、あっ、失礼。
小学生にでもわかる、非常にわかりやすい映画を作り続ける
ディズニー映画への「揶揄」であり「皮肉」です。
ディズニー映画の主人公の行動指針は、わかりやすいです。
その理由が、小学生にでもわかるように説明されています。
(それは、それで大切なことです。子供でも楽しめる映画は必要ですから。)
ディズニー映画を見慣れている人にとっては、
小学生でもわかるように作られてはいない『竜とそばかすの姫』は、
かなりわかりづらかったでしょう。
「すずが竜を助ける理由、動機が不十分」。
「すずと竜の関係性が描かれていない」。
と思ってしまったのもわかります。
しかし、人を助けるのに、「理由」が必要なのでしょうか?
「理由」もなく、人を助けてはいけないのでしょうか?
(これこそが、『竜とそばかすの姫』の確信です)
そういう、「見返りを求めない愛」というのが、あるよね。
すずの母親にあったし、すずの中にもあった。
そして、あなたの中にもあるのではないですか?
これこそが、『竜とそばかすの姫』に込められた
細田監督の熱いテーマである。と私は感じるのです。
ですから、もし
すずが竜を助ける理由、動機が十分に描かれていたら。
すずと竜の関係性が、十分に描かれていたら。
「見返りを求めない愛」のテーマは台無しです。
というか、
今まで山ほどつくられきた「ディズニー映画」と
同レベルの映画にしかならないわけです。
私は、『竜とそばかすの姫』を見たとき、驚愕しました。
細田監督が、
「見返りを求めない愛」「真の母性愛」という
崇高なテーマにたどりついていたことに驚いたのです。
7●ハリウッド映画を超越した細田監督
「見返りを求めない愛」=「アガペー」は、
ハリウッド映画には、よくあるテーマの1つです。
しかし、それらの映画は、ほぼ100%、
キリスト教的な枠組み。
イエス・キリストの自己犠牲、神の愛
なぞらえて、描かれる。
だから、必ず「死」からの「復活」がセットで描かれます。
例えば、わかりやすい例で言えば、『マトリックス』がそうです。
心停止して死んだかのように見えたネオ(キアヌ・リーブス)は、
そこから復活して、比類なき強さを発揮して、
エージェント・スミスを駆逐して、人類を救います。
しかし、
『竜とそばかすの姫』の凄いところは、
キリスト教的な価値観。
あるいは、スピリチュアルとか、全く無関係に、
「見返りを求めない愛」を描ききっているところです。
悠然と海を泳ぐクジラが持つ、圧倒的な包容力。
そして、そのクジラの上で、
「愛」のテーマ、高らかに歌い上げるベル。
そこから発生する、「共感」と「愛」の伝播。
ベルの歌声とともに、
「U」の世界が「愛」に包まれます。
(「U」(ユー、You)の世界が「愛」(I)に包まれる)
つまり、
「人を包み込むような愛情」=「母性愛」
というものを全ての人は持っていますよ。
持っているはずですよ。
相手を攻撃したり、誹謗中傷したり、互いに仲違いしたり。
それって、間違っていませんか?
(それを、明確にするために、現実のSNSとそっくりな
「U」という世界観を描いている)
今こそ、私たちは「母性愛」を発揮する時代
なのではありませんか?
ということが、問われているように思うのです。
8●オキシトシン的愛情と癒やし
竜とベルの関係性。
傷ついた竜を抱擁するベル。
『美女と野獣』を模したダンスシーン。
この2つの描写から、
竜とベルの関係性を「恋愛関係」と誤認した人も少なくないでしょう。
ベルの竜に対する感情は、
「異性に向けられた感情」よりも「母親が子に抱く感情」に
近いものと考えられます。
その理由は、現実世界で対面した竜とすず。
2人は抱擁し、その肌感覚から、
竜は、すずがベルと間違いなく同一人物である
と確信するシーンです。
この肌と肌のふれ合い。
これは樺沢的な表現で言うと
「オキシトシン的愛情」ということになります。
傷ついた竜が、ベルに抱擁されることで癒やされるシーン。
これは、間違いなくオキシトシン的な癒やしです。
彼氏と彼女がハグして癒やされる」こともあるでしょうが、
本作のハグは、そうした異性の抱擁とは、別物です。
現実世界での、竜とすずのハグ。
これは、母親が息子を抱擁するのに、近いイメージでしょう。
この瞬間の肌感覚で、
すずは、自分の「母親の愛情」というものを、知ったはずです。
自分が、愛し、慈しむ側に回ったことで。
9●そして母になる
竜に「母親がいない」という伏線も、効いてきます。
暴走する父親。力による支配は、
拙著『父親はどこへ消えたか』による父性分類では、
「強すぎる父性(Very Strong Father)」に分類される。
悪しき父親像の1つです。
竜に母親がいたら、母親が緩衝材として機能したはず。
ここまで、竜は追い詰められ、傷つくこともなかったはず。
そうした心の欠落(=母性の欠落)を埋める存在が、
ベル(すず)であったと言えます。
是枝監督の『そして父になる』という作品がありますが、
『竜とそばかすの姫』にサブタイトルをつけるとするならば、
「そして母になる」です。
「すず」が、母になる映画。
現実的な母になるという意味ではなく、
「母性的存在」になる、という意味。
自らが「母性的存在」になることで、
母親の「母性愛」に気付き、
「母が見ず知らずの子供を助けた理由」と
「自分は、母に圧倒的に愛されていた事実」
に気付く。
そして、その「母性愛」によって、
竜という少年を癒やすのです。
10●父親はどこへ消えたか?
さて、『竜とそばかすの姫』は、母性の映画。
無条件で相手に受け入れる。
見返りを求めない愛、究極の母性愛を描いた作品
ということは、理解いただけたと思います。
では、本作における「父親」は、
どのように描かれていたのでしょう。
本作に父性は、あるのでしょうか?
『竜とそばかすの姫』。
このタイトルを初めて聞いた時、
おそらく1年以上前で、ストーリーも全く発表されていない時。
私は、
“「父性」と「母性」のバランスが描かれる作品”
になるのでは、と予想しました。
なぜならば、
竜(ドラゴン)は、古来、神話の時代から「父性」の象徴。
「ドラゴンを殺す」=「父親殺し」
心理学における「父親殺し」とは、
父親のような圧倒的な強さを持った存在を倒す(乗り越える)ことで、
心理的に成長し、大人になっていく、ということを表します。
「父性」というのは、細田作品では、
「家族」「母性」と並び重要なキーワードになっていますか。
『おおかみこどもの雨と雪』では、父親が早くに亡くなり、
どのように子育てをしていくのか? 子供は育っていくのか?
というテーマ。
二人の子供、雪と雨。
雪は人間として生き、雨は古狐を「先生」と呼び、野生で生きていく
すべを学びます。つまり、生きる指針を示す「先生」(古狐)が
強烈な父性として描かれていました。
細田作品の中で「父性」を極めた作品が、
『バケモノの子』です。
9歳の少年・蓮は、両親の離婚で父親と別れ、
親権を取った母親につくことになりますが、母も交通事故で急死。
親戚の養子となるものの、逃げ出し、
渋谷の街をさまよううちに、化け物の住む街「渋天街」に迷い込みます。
そこで、強さを求める連は、武術の達人でありながら
人間的にやや問題のある「熊徹」のもとに弟子となり、
修業をしていく、という物語。
「自分もそうなりたい」と
「リスペクト」を感じさせる存在が父性。
映画後半で、蓮は実の父と再会し、
「一緒に暮らそう」と言われるものの、それを拒否します。
蓮にとっての、父(父性)は、「熊徹」となっていたわけです。
「強さへの希求」=「父性を求める」
蓮の心のゆらぎは、思春期の少年の心の機微をとらえ、
「父親探し」「父親殺し」がテーマとなった王道的な作品と言えます。
「父性」を極めた作品からの『バケモノの子』
からの『竜とそばかすの姫』。
ですから、「父性って大切だよね」とか
ハリウッドで散々作られた続けた「父親殺し」の話になるはずがない。
拙著『父滅の刃』で分析した通り、
ここ10年間の映画、アニメを分析したところ、
「父性」と「母性」のバランスを描いた作品が非常に増えています。
その最高峰が『鬼滅の刃』なのですが、
そうした時代の流れも含めて
「父性」と「母性」のバランスを描いた作品になる
と予想したわけです。
しかし、結果は「母性」に大きく振れる作品となり、
究極的な母性愛をたたえる作品となっています。
そこに、度肝を抜かれました。
つまり、ディズニー映画のように
既存の空気に狡猾に同調するような作品ではなく、
全く新しい世界を切り開くような作品になっている。
そこが、
『竜とそばかすの姫』の斬新さであり、
細田監督の「家族」というテーマ。
「母性」と「父性」の揺らぎの中で到達した
新しい「境地」であったわけです。
11●すずの父は母性?
本作には、二人の父親が登場します。
竜の暴力的な父。
そして、もう一人、すずの父です。
すずの父はものすごく優しいお父さんです。
ご飯をたべないすずに、注意もしないし、指導もしない。
ただ、温かく見守るだけ。
全く父性的ではないのですが、
この「見守る」というのは、圧倒的に母性的な対応と言えます。
父親が、すずの母亡きあと、母の母性を埋めるべく、
ふるまっていたのかもしれません。
『竜とそばかすの姫』では、父性不在が意識的に描かれています。
それは、「母性」にフォーカスさせるための戦略なのでしょう。
12●アドラー心理学と『竜とそばかすの姫』
『竜とそばかすの姫』を見ながら私は思いました。
これってアドラー心理学だよね。
細田監督は、『嫌われる勇気』読んだよね。
『嫌われる勇気』が、
100万部を超える大ベストセラーとなり、
アドラー心理学についての理解は、
かなり広がってきたと言えるでしょう。
アドラー心理学の中には、
「課題の分離」「勇気付け」「劣等コンプレックス」など
いろいろなポイントがあるわけですが、
私が最も注目するポイント。
アドラー心理学の真骨頂は、「無条件の信頼」だと思います。
人を信用しても、裏切られた怖い。嫌われたら怖い。
だから、あまり人と仲良くなりたくない。
それに対して、アドラーは、
「見返りを求めずに、無条件に信頼しなさい」と言います。
なぜならば、相手の気持ちを完全にコントロールすることは、
自分にはできないから。
自分を好きになるか、嫌いになるかは、相手が決めることであり、
自分がコントロールできないことなのだから、
悩んでもしょうがない。
だから、自分にできることは、
「相手に好かれたい」という見返りを求めずに、
無条件に相手を信頼することが大切だ。
とアドラーは言います。
嫌われてもしょうがない。
嫌われる勇気を持って、無条件に相手を信頼する。
相手を愛することの重要性を説いています。
(それが「嫌われる勇気」)
見返りを求めない「無条件の信頼」や「無条件の愛」
というのは、そう簡単にできるものではありません。
『嫌われる勇気』を読んだ人のほとんどは、
「確かにそうだけど、実際、会社とかで行動するのは難しい」と
思ったに違いありません。
「無条件の信頼」や「見返りを求めない愛」は、
確かに重要ですが、実際問題として
ほとんどの人は実行できない。行動できない。
『竜とそばかすの姫』では、その部分を
非常にわかりやすく、かつ具体的に、
解きほぐして伝えくれていると思うのです。
一言で言えば、「すずが竜に抱いた感情」です。
「この人を助けたい!」
「この人をを何とかしてあげたい!」
という素直な感情。
それって、誰にでもあるのでは、ないですか?
「無条件の信頼」とか「見返りを求めない愛」
という言葉を使うと、壮大なイメージで
「自分には無理」と思うでしょう。
しかし、「この人を助けたい!」という感情にもとづいて、
ちょっとした親切をするということは、
誰にでもできるのではないですか。
例えば、電車で妊婦さんが乗ってきたら、席を譲る。
「相手からよく思われたい」とか、
見返りを求めて行動している人わけではないですね。
何となく、そうしたいという衝動に駆られる。
「無条件の信頼」「見返りを求めない愛」は、
誰の中にもあるのです。
13●他者貢献の時代にマッチした映画
最近流行のSDGsというのも、同じです。
持続可能な社会のために、何ができるか?
SDGsに貢献したとしても、
自分に何か見返りがあるわけではありません。
しかし、資源や環境に配慮しない生活を続けていたら、
自分たちの子供や孫たちが住む世界がなくなるかもしれない。
自分への見返りはない、
自分への利益ではなく、未来の誰かに向けた貢献がSDGsです。
私の『3つの幸福』でも書きました。
他者貢献、社会貢献、ボランティアによって
オキシトシンは分泌する。
他人や社会のために貢献すると、実は自分の脳内で
幸福物質が分泌されて、自分の幸福につながるのです、と。
だから、他者貢献、社会貢献、ボランティアを
積極的に行い、オキシトシン的幸福にあふれた社会を作りましょう。
「コロナ禍」もそうです。
「自分のため」だけを考えて行動していたら、社会は混乱します。
今、時代は、他者貢献、社会貢献の時代に突入しているのです。
その空気感をとらえた上で、
『竜とそばかすの姫』を見直して欲しいのです。
「他者貢献、社会貢献は重要ですよ」と
上から目線で言われても、誰も行動しないのです。
高校生の主人公が、紆余曲折を得ながら、
自分の中に湧きあがる「人を慈しむ心」に気付き、
その思いのままに「人を救う」行動に、突き動かされる。
それが、他の人から見ると、「他者貢献」に見えるだけ。
人間の中には、
「他人のために役立ちたい」
「社会のために役立ちたい」
という本能的なものが必ず存在します。
高校生の「すず」でも気付けたのてだすから、
私たちも気付けるはずなのです。
そして、行動に移せるはずなのです。
14●「歌」が表すこと
ベルが「歌」で人を癒やす、
という描写にもそれは現れています。
歌を歌うのが好き。
本当にそれだけなら、人前で歌う必要などないのです。
誰もいないところで、1人で歌っていればいいのです。
しかし、現実社会で歌が上手に歌えない。
そして、コミュニケーション下手のすずは、
なぜか地域の合唱サークルに入っています。
歌というのは、「歌う人」と「聞く人」の交流です。
その、コミュニケーションがないと、楽しくないのです。
実は、すずは、本当はコミュニケーションをのぞんでいたのです。
心を閉ざしている反面、本当は「心の交流」が欲しかった。
だから、人の前で上手に歌いたかったし、
それを聞いて欲しかったのです。
ベルは「U」の世界の何億人の前で歌い、
人々を感動させ、人々を癒やします。
すずの隠された願望が、
「U」の仮想現実の中で実現していきます。
それは、社会貢献であり他社貢献であり、
すずの自己肯定感の高まりでもあります。
「自分」のことで一杯一杯だったすずが、
「他人を思いやる」余裕が生まれていく。
そして「竜を助けたい」
という想いにつながっていくのです。
15●改めて考える~すずが竜を救った理由
すずの「竜を助けたい」という動機や理由が
描かれていないと批判されますが、、
心理学的にみると、ものすごーーーーーく丁寧に、
そして親切に描かれているではありませんか。
自分が、自分が。
自分のことしか考えられない「クレクレ星人」
(劇中にも、「U」の書き込みとして、多数登場している)。
彼らは、違う世界の住人なので、
「(自然に湧き上がる)人を助けたいという想い」「母性愛」
「無条件の信頼」「他者貢献、社会貢献」というキーワードが
外国語のように理解不能なのです。
しかし、ベルが「U」の世界を変えたように、
現実の世界も変わりつつある。
いや、「変わって欲しい」という願望も含めて、
細田監督の熱いメッセージに圧倒的に共感し、感動するのです。
「他者貢献、社会貢献」というのは、言語化すると陳腐です。
誰の心にも響かない。
だから本作では、「歌」を使っているのです。
音楽は「非言語的コミュニケーション」、
歌詞は「言語的コミュニケーション」です。
「歌」は、「言語」と「非言語」の両方の要素を持っています。
言葉だけでは伝わりづらいテーマですが、
「歌」を使うことによって、私たちの心を揺さぶりながら、
「母性愛」という形のないものを、
より鮮明に、明確に描き出しているのです。
すずが竜を助けた、その基盤となる感情は、
「セリフ」では直接説明されていません。
しかし、
ベルが歌う楽曲とその歌詞。
ベルが竜を抱擁する映像など、
「非言語」的な描写によって、実に的確に描かれているのです。
●まとめ
思った以上に壮大な解説となり、
これを書き上げるのに8時間もの時間がかかってしまいました(笑)。
別に映画を見終わったあとに、この文章を考えたわけではありません。
映画を見ながら、脳の中に湧き上がるイメージを文章におこして見ました。
映画の最中に、あまりの多くの「気付き」に、
私の脳のキャパシティは飽和してしまい、
文章としてまとめるまでに、
映画を見てから3週間もかかってしまいました。
♯自然に湧き上がる慈しみの心
♯見返りを求めない愛
♯究極の「母性愛」
♯アドラー心理学の「無条件の信頼」
♯オキシトシン的愛情
♯他社貢献、社会貢献
いろいろな言葉を使って説明しましたが、
全て同じことを、違った表現で説明しているだけです。
その「湧き上がる自然な愛情」は、
あなたの中にもあるのではありませんか?
映画は、数年かけて作られます。
映画には、膨大な情報が盛り込まれていて、
それを2時間の間に受け止めて、理解し、咀嚼し、
整理するのはたいへんなことです。
さらに、今回のように文章にまとめて人に伝える
ところまでいれると、かなりの時間を要します。
『竜とそばかすの姫』には、
通常の映画の倍以上の情報が盛り込まれている気がしました。
ですから、ほとんどの人は、脳が飽和してしまうのです。
仮に『竜とそばかすの姫』の姫が「100」の情報量を持っていて、
その「30」しか、脳に入らないとしたならば、
「おもしろい」と思うはずがありません。
「よくわからない」「つまらない」「説明されていない」
ということを、みなさん感想として述べるのは、そのためです。
『竜とそばかすの姫』は、
ディズニー映画のように小学生でもわかるようには、
作られてはいません。
映像や音楽(歌)など、非言語で伝えている部分が多い。
だからこそ、見ごたえがある。
映像で伝えるから映画。
だからこそ、私は
『竜とそばかすの姫』は「本物の映画」だと思います。
私が、ここまで詳しい映画の論考を書くことは、
年に数回しかありません。
2021年で言えば、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』についで2本目。
それだけ見応えのある、
解説しがいのある作品であるということ。
私の想像をはるかに超え、
圧倒的な感動を与えてくれた『竜とそばかすの姫』を作ってくれた、
細田守監督に心から感謝の意を表したいと思います。
追伸1
「父性」と「母性」については、拙著
『父滅の刃 消えた父親はどこへ』(みらいパブリッシング)
で詳しく解説しています。
今回の記事で、映画の心理学的解説に興味を持った方は、
たいへんおもしろく読めるはずです。
アメリカ、日本の映画、アニメ。
100本以上を、「父性」という切り口で詳細に解説しています。
追伸2
映画を一回見ただけで、その全てを理解すること不可能です。
2度見て、ようやくわかるということもあります。
私も、そろそろ『竜とそばかすの姫』の2回目を
見に行こうと思います。
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ブログ記事から『父滅の刃』を拝読した時の感銘を再び味わっています。
あの書籍後、私の映画の見方が変容したように思います。
8月4日に『龍とそばかすの姫』を視聴し感動!
すぐに某映画関係アプリで短い感想を書きました。
散見する酷評の数々に寂しさを感じましたが、
「いや、自分は面白かった!」と満点をつけていました。
作品への「好き嫌い」は、どちらもあってよいと思います。
直感や感性だと思うので。
だけれど「深い浅い」は、違う判断基準なのだと思います。
受け手の視点の多様さによって、解釈の深みが変わってくるからです。
「浅いなー。でもなーんか好き」とか、
「深いなー。でもやっぱり嫌い」というのは、あるでしょうが・・・。
「ある作品に対して「中身がない」と感想を抱くとき、
本当に中身がないのは
自分の人生の方なのではないかと疑ってみた方がいい。
物事から取り出せる情報量は、
人生で思考した分だけ増えていく」
と、誰の言葉か忘れましたが手帳にメモしています。
今日のブログの記事を読みながら、
この言葉を思い出していました。
今日のブログでは、
この作品を読み解く新しい視点をいただき、ありがとうございました。
近々もう一度観に行きます。
その際、私が観たいことの1つが
「何かが欠けているけど大切にしている描写が他の場面にもないか?」です。
飼い犬の足、マグカップ、歌声など。
そんなこと抜きに、また泣いてしまうかもしれませんが!
はじめまして。
先生のブログと本を黙って追いかけてました。
竜とそばかすの姫見ようかなーどうしようかなぁと迷いながら、先生の映画評を待ってました!じっくり感じて味う映画なんですね!子供と見るのはやめて1人でみます!
さて、今更ながらに父滅の刃を読み始めました。まだまだ序盤なのですが、つい感想を言いたくなって!
先生この本めちゃ面白いですね!本屋さんであまり見かけないので、Kindleで読んでます。こういう本求めてました!
外出が憚られる世の中、映画やアニメを家で楽しむ人も以前より増えてるはず!
もっと本屋さんでガンガン売ったらいいのにって思いました。
まだ全部読んでないのに、つい嬉しくなって!
なるほど、母性愛だったんですね。私は、これは博愛を描いているのだと感じましたが、母性愛と見る方が納得がいきます。ディズニーは今まで分かりやすい作品を書いてきましたが、アナ雪では姉妹愛を描き、最新のプリンセス映画ラーヤでは親子愛、それから悪役との和解など、ディズニーも恋愛などのステレオタイプな物語からシフトしつつあると思います。しかし、龍とそばかすの姫を見て、細田守監督はさらにその先を行っているなと感じました。このテクノロジーが世界中の人を繋ぐ世界で、インターネットが多様性や市民性を帯びていく中で、あえてマイノリティーにフォーカスする。近い将来Uみたいな世界を一番先に実現しそうなのはGoogleだと思いますが、Googleは博愛的な存在です。いつでもどこでも”だれでも”使える。その博愛的なデバイスだからこそ、世界から孤立している人を救えるきっかけになる。そういう新しい現代性を描いているなと感じました。イエスキリストが、本当に救いたかったような人たちが、今、いろんな人にアクセスできるようになったおかげで、救われつつある。キリストが生きていた時代は、出会える人のタイプに、限りがあった。同性愛の人も、その時代にもちろんいたでしょうが、全員が読むような聖書には、その存在を否定される形で描かれてしまった。その存在をもっといろんな人が知っていたら、イエスならイエスというに違いなかったでしょう。だから、1000年の時を経て、ようやくキリスト的な世界が実現されているのは、凄いことだなと、時の流れを数奇に感じます。博愛というのは、真の母性だと思います。また、見ていて、数奇さに圧倒されそうになったのは、美女と野獣の他にもたくさん作品の参照があるからです。ハウルの動く城、湯浅政明作品、おおかみ子供の雨と雪、サマーウォーズ、残響のテロル、ゲド戦記、など…現代のアートは、いろんなメディアや作品をごちゃごちゃに混ぜて要素が多い、けれどオリジナリティを感じるスタイル。まさに世界中がつながらざるを得ない多様性社会で、視点がどんどん広くなっているからこそだと思います。